符点のオーキュライド

ノヴァマリアが旅立ったんだ。
そう彼女は溢れるように小声で話すと、羨望の眼差しで1アシュケールも無い小窓から外を見た。
そこには億人が望む、万人の器、ノヴァマリアがあった。
それは途方も無い数の人間を載せていると言う。
どこへ向かうのかは知らない。
いつの間にか作られ、いつの間にか旅立とうとしている。
人々を、人類の未来を、希望の名とすべく。

式典でよく聴く歓声と号令が飛び交う。
小窓の前に居並ぶ対人狙撃銃を持つ警護兵達は、落涙を押し留めようともせず
旅立つ船に敬意と縋りと畏敬を向けた。

行くよ。
彼女に声をかけ、手を取って小窓から離れた。
歓声、悲鳴、希望、怨嗟が小窓から漏れ伝わってくるのが苦痛でしかたない。
感情の洪水は脳を狂気に陥らせるようだ。
彼女はあまりそれらを気にかけないようだった。
ただ、彼女は純粋にノヴァマリアの美しさに見惚れていたのだ。

小窓から激しい光が溢れ、部屋を満たした。
飛び立ったのだ。
兆人が願う世界の旅路が始まったのだ。

世界は終わるのではなく、始まるのだ。
それだけでもそれは存在意義があった。
どのような未来をもたらすのだとしても、人は希望を捨てて生きてはいけなかったのだ。

まるで児戯のように窓に食らいつく無責任な大人どもに軽蔑を覚えながら、当時幼少だった私は・・・声をかけた彼女、つまり姉を連れて地下へ向かった。

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降雨三七〇天層記録

雨の日は不快だ。
最悪の気分にさせてくれる。
外出出来ないばかりか、狙いすましたかのように良くない知らせが届く。

環境集中制御権についてエトリア真王やセルドレイク民王が借用を申請してきた。
借用するとかしないとかじゃない。
何度も言うが環境集中制御権とはそう言う物ではない。
これは人類に対して常に公平で中立であるべき存在だ。
そもそも今回の件はリングレンドの中央民会から疑義が出ているし、
お隣のパンファレス監視局からはどこで情報を知ったのかご丁寧に緊急通信でクレームまで入れてきた。面倒臭い奴らだ。

ある日のこと、セルコンの空中給油艇が降雨種と晴天種を仕入れてきた。
これをまずアプリコットの天候種検査室に送らないといけない。
種は一口に降雨と言ってもその中身は多種多様で、大小様々な物があるばかりか、中には災害レベルの物がある。
天候種検査室では災害レベルの物を除外する作業があるのだが、気の長いことにこれが最短で1週間、長い物で3ヶ月調査がかかる。

天候種は効力時間の幅が非常に大きい、短い物で6時間、長い物で1200時間だ。
種の消費量は非常に激しい物であり、当然ながら効果範囲に応じて消費量も増す。
膨大な天候種を常に同時に検査しなければこれら需要を満たす供給量を維持出来ない。
万が一の為の緊急天候種ももちろんあるが、在庫は60日分しかない。
かつて先見の明があった復古王の時代では900日分の在庫があり、潤沢な自然環境担保があることから
農産物投資および将来安定性も極めて高かった。

カンタレイアから科学査問官が到着した。
お元気でありましょうか互恵天候官、と耳をつんざくばかりの大声が私の脳髄を貫く。
その大声は不愉快だからやめろ、と私は直言した。
が、どうにも意図が伝わらなかったようだ。
小声でお話しましょう!それは大声だった。こいつの脳は腐敗しているに違いない。

科学査問官エビレック・木樹は眼鏡をかけ、小柄で、なぜか分からないが白衣を着ている童顔の男だった。
見た目の割には知恵に富み口が達者であり、外見の幼さに油断し彼に言いくるめられて気がつけば予算を削減されたプロジェクトは数知れない。
それ以来彼はあちこちで予算削減の悪魔と呼ばれている。が、本人はさして気にしていない。

なぜか知らないが彼は私の業務計画には増額を提案してくる。
そして増額に見合った計画を提出しろと言ってきた、前後が逆じゃないか?
彼は涼しい表情で返事した。
そんなことをしていたら100年経っても予算なんて決まりませんよ。
こいつの中央民会に対する議会交渉能力や上院への説明がどのような現象になっているのか知りたくないし知る方法も無いが、
なぜか分からないがこいつは上手いことやってのけて業務計画の予算を獲得してくる。

具体的に何をすればいいんだ?そう尋ねると、契約書とペンを取り出した。
物事は簡潔明確に信条の彼にとっては契約書こそが至上の存在だ。
全ては彼の計画通りに物事は進んでおり、あとは私が名前を書くだけだった。
雨の日に全て用意された書類にサインするだけなど不快だ。

いつからこれを計画していたんだ?
だが彼は直接はそれに答えず、サインするかしないかにしか興味を示さない。
過去一度も彼は私に対して不利益なことはしなかったから、ある意味信用出来る。
だが信用していることと同じぐらい、彼のことを私は信用していない。

サインを終えると彼は世間話をする。
美味しい食事の話、近所の愉快な出来事、叔母のおもしろおかしな出来事。
どれも退屈極まりない話だが、時々彼は会話をしながらすっと手紙を差し出す。
それは決まって「この時この場では読むな」と言う意味合いの物だ。
誰かから話を聞かれていることを恐れているのだろうか。
用意周到なことだと感心するが、まるで策謀の片棒を担ぐようで私の不快感はとてつもないことになっている。

話が終わり、彼に紅茶を飲ませて建物から追い出した。
何だか分からんが、本当に疲れた。
今日は早く仕事を終えて寝よう。
寝るに限る。

その日、天候はとても晴れ晴れとして気分は最高であった。
と言いたいところだったが最悪であった。
年次報告会において公然と衝来サカディアから非難された。
彼と彼のろくでもない近視眼な支持者達から決議を取られると、途端に私の考えや成果は無かったことになった。
なぜこんなことになった?
本人の弁によると真王、民王の要請を無視して独断専行し、私利私欲のために権限を用いたからだと言う。

鼻で笑うしか無い。
真王、民王こそ私利私欲であろう。
そして中央民会にはどう説明するのだ?
彼はそれに答えなかった代わりに笑顔を見せた。
おそらく真王、民王 のどちらか、あるいはその両方の支持を得られたのだろう。

愚かな同僚を持った。
私はため息を嫌悪するが、その日ばかりはため息を吐いた。吐きまくった。

年次報告会では私の互恵天候官としての権限剥奪と降格処分、そして謹慎処分が決定された。
まるでそれで満足しろと言わんばかりに天候監視官の地位を与えられた。
新人に与えられる暇で暇で仕方ない仕事だ。つまり、一番の下っ端だ。

私についてくると言ってくれた部下もいたが、全て断った。
被害者を無闇矢鱈に拡大させるのは良くない。
同時に、正直部下を連れてもその地位では何の役にも立たない。
暇人が増えるぐらいなら、有能な互恵天候官は現場に残るべきだ。

私は互恵天候官であることを示す記章を外して、会議から出た。

三月もすると、謹慎処分解除通知が私の手元に届いた。
顔馴染みの配達員が行政通知書を見て笑顔で話しかけてきた。
おどろおどろしい色以外の行政通知書は基本的に穏当な内容であるから、配達員は色を見ただけで大体内容が分かる。
良かったですね、と配達員は声をかけてきた。
本当に良かったのだろうか、配達員に礼を述べて室内に戻り、肘掛け椅子に腰を落として手紙を開けた。

元互恵天候官 穂包・スラマンド。この度は謹慎処分撤回お祝い申し上げる。
しかしながら貴殿の職場への復帰は上級官庁より拒否された。
だが私は貴殿の類まれなる能力を考え、新組織である行政集中処理の上級官庁人事監督管轄外である連絡事務員として活躍して頂きたい。
この職であれば上級官庁の許諾は不要であり、監査委員会も介入してこない。
また一度組織に所属してしまえば、内部昇進に外部の決裁は一切不要である。
元の地位への復帰が出来ない以上、一番下の地位からの再出発だが貴殿は能力があるから恐らく二月もかからず存分に昇進、活躍出来るだろう。詳細は後日連絡する。
行政集中管理処理事業 統括責任者 エビレック・木樹

追伸
エトリア真王は派閥抗争で敗北し政治能力を喪失、セルドレイク民王は高齢により隠居された。
同時に中央民会による査問委員会が行政全般の再検査を行った。
衝来サカディアとその部下達は中央民会に従わなかった反乱謀議疑惑により左遷、追放処分となった。貴殿は運が良い。

ふと目を外に向けると雨が降っていた。
雨の日はやっぱり不快だ。

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