社会修復業

彼女は昼に必ずサンドウィッチと紅茶だ。
サンドウィッチはそれほど手間暇をかけていない。
ハム、卵、レタス、スライスチーズ、塩胡椒と有塩バターを少々だ。
紅茶は必ずストレートティーとしてダージリン、ミルクティーとしてアッサムを1日おきに交代に飲む。

朝にサンドウィッチを詰めたランチボックスと紅茶の入った水筒を彼女に渡すと、無言で燐チップを渡してくる。
燐チップは中央配給所で色々な物と交換するのに使う。
彼女は給金として得られる燐チップの一部を、ご飯代として毎日のように私に渡してくれるのだ。

毎回同じサンドウィッチと紅茶だけでは飽きるだろうと、豪華な焼き肉と油分を流す緑茶にしたこともあるが彼女には酷く不評であり、即座に元のメニューに戻した。

彼女の仕事は社会修復を担当していた。
社会修復と言っても特殊能力が必要な技能ではない。

建築物は人が使わないと崩れていく。
物事は使うことによって強化、維持される。
そこに人がいると言うだけで存在は強固になる。
それは社会も同じだ。

何も特別なことはしない。
普通にその社会で住居を得て、人々と出会い、労働し、遊び、納税し、飲食をして、睡眠を取る。
それだけのことだ。

彼女は自宅から自宅へ帰宅する。
彼女にとって自宅は2種類ある。
社会修復労働としての自宅と、その労働から帰宅する自宅だ。
前者は主に労働宅、後者は私宅と呼ばれる。

どうだった?
私宅へ帰ってきた彼女に話しかけると、水筒だけ手に持ち、荷物を玄関に置いて、リビングの椅子にもたれた。
右手の人差指をくるくると天に向けて、机にコンコンと叩いた。
つまらない仕事、そう言いながら彼女は地図を示しながらビジネスエリアのオイリアタワーを示す。
全く皮肉も無く、素直に彼女を称賛する。
凄いじゃないか、エリートだ。キャリアに繋がる。
キャリアと言う言葉に反応した彼女は、まだ水筒に残っている紅茶を飲みながら自嘲するように笑った。
紅茶を飲み干してだらんと右手を垂らすと、うなだれるように声を出す。
こんなことキャリアに繋がらない。
どうして?オイリアタワーは自分の知ってるファーゲルやライリアのチームにも一人も経験者は居ない。
そう言うと、彼女は今日初めて目を合わせて言った。
「ハズレだから」

 

彼女は出張する、といって数日前に出かけた。
静かな一人だけの朝を迎えると玄関に予想していなかった客が来た。
「こんにちは」
コンコンと玄関ドアを叩く音がする。
インターフォンも使わずに?
どなたです?
「社会保安局です、アシムさんでしょう?お話をさせて頂けませんか」
ドアを開けると社会保安局と呼ばれる人物が3人ほど立っていた。
「初めまして、社会保安局のバティルと言います。アシムさんですね?」
はい。
「今はお一人で?」
ええ、夜には彼女が帰宅します。
「その彼女とはこの方ですか?」
保安局の人物が労働認証カードを示した。
そこには彼女の写真が貼り付けてあり、労働固有IDが記載され、有効期限も記載されていた。
どこでこれを?彼女が落としたのですか?
「まあ、彼女が落としたとも言えるでしょう」
バティルは困ったような表情をしながら彼女がいつも職場の自宅へ向かう時に持っていく大きなバッグを後ろに立つ部下に持ってこさせた。
これは彼女の?
「見覚えが?」
そう言いながらバティルはバッグを開けた。
私物を勝手に?そう言うよりも早くバッグが開かれると中からは様々な衣服が出てきた。
仕事着だろう。
そう思っているとバティルは言った。
「実はこのバッグ、オグマに落ちていましてね」
オグマ?そう聞いてしばし考え込んで思い出した。
そうだ、製造業が集中している区域だ。
オイリアタワーにいるはずでは?
そう聞き返すと、バティルは壁にかけている私のコートを見た。
「少しお時間頂けませんか、ドライブでもしながら」

社会保安局に逆らったところで何も利益は無い。
バティルの用意した車に彼と彼の部下と共に乗り込む。
部下が運転席と助手席に、後部座席に私とバティルが座った。
「好きな音楽でも?」
バティルは気を利かせて聞いてくれたが、要件優先で、そう答えると嬉しそうに微笑んだ。
「アシムさん。実は彼女なんですが、この労働認証カード、偽造でしてね」
激しく私は咳き込み、必死にバティルに言った。
待ってくれ。彼女はここで少なくとも6年か7年は働いてるはずだ。
毎年労働局から認証更新もしている。実際に一緒に更新についていったこともある。
それに半年に一度の現場監督官の検査も受けてる。
そう言うとバティルは社会制度の不備に対する深い悲しみを表すため息をつきながら答えた。
「所詮認証カードとかルールといったものは人間の作った物です。破ろうと思えば破れるのです」
どうやって?
「労働局に彼女の仲間がいたとしたら?現場監督官が彼女の仲間だとしたら?」
助手席に座っている部下が、偽造証拠品とタイトルのついた電子書類をディスプレイ越しで提示してきた。
そこには偽造箇所と思われる部分が赤い印で示されていた。
私がこれには本当に偽造かどうかは分からないが、仮に偽造だとしたら?彼女はどうなるんです?
「それよりももっと大事なことがありまして、質問宜しいですか?」
バティルは目を開いてこっちを真っ直ぐ見据えた。
「彼女の名前は?」
名前、それはもちろんあれだ
名前は
「名前は?」
名前は…
名前…?
「思い出せませんか?」
いやいやいや、緊張してど忘れしただけだ。すぐに思い出す。
彼女の名前は
「彼女の名前はアンジェル」
そう!そうだ!アンジェルだ!
「ヒメリア、クロエ、カーラ、イネス、グラシア…」
なんだ?何だその名前は?
「彼女が持つ他の名前ですよ。アシムさん、どれも聞いたことがあるでしょう?」
バティルに言われた瞬間、激しく目眩が起きた。
どの名前も聞き覚えがある。
彼女の顔が浮かぶ、だがなぜだろう?彼女の名前は一つだけなはずだ。
彼女の名前は
「そして別の質問なんですが、彼女から定期的に受け取っていた物はありませんでしたか?」
定期的に?そんな物は
そう答えようとした瞬間に心臓がドクンと音を鳴らす。
ふいに汗が額や脇からじわっと滲み出る感覚を覚えた。

朝にサンドウィッチを詰めたランチボックスと紅茶の入った水筒を彼女に渡すと、無言で燐チップを渡してくる。
燐チップは中央配給所で色々な物と交換するのに使う。
彼女は給金として得られる燐チップの一部を、ご飯代として毎日のように私に渡してくれるのだ。

燐チップ。

「アシムさん?身に覚えがあるでしょう?」
まさか、いや、でもあれは彼女から受け取っていた食事代で。
「その燐チップがこれなんですがね」
そう言ってバティルは一つのコインを出した。
それは燐チップでもなんでもない、ただの電子コインで、通貨と言うよりは割引券やオマケのようなものだ。
私を騙そうと言うんですか!!
思わず激昂し、バティルを睨む。
「そう反応なさるのも無理無いですが、この電子コイン。イメージ誘導投影の機能がありましてね」
バティルが右手でコインを撫で回すと、なにかのスイッチに触れたのか、カチッと音が鳴ると瞬時にコインから細いノズルが飛び出した。
「この電子コインは犯罪組織が使う物です。催眠効果にむしろ近い。
貴方は見ていない物を見ていたんですよ。この電子コインで」

「ハズレだから」

彼女の声は何度も何度も聞いていた。
ただ、あの声だけ質感が違った。

ああ、あの声だけが本物だったのか。
それ以外は幻影だったと言うのか。
だと言うとハズレと言うのは何のことだ?

「オイリアタワーにはある種の設計図がある・・・と言う情報が流れていた」
設計図?
「ああ、そこは興味を持たずに。何、あなたには関係無いことです。まあいずれにせよ重要な書類があったと言うことです。
もちろん、オイリアタワーにそんな物があると言うのは我々が流した情報で、囮捜査と言う奴です。
囮捜査は人類史の中で2000年経っても4000年経っても有効なので使わせて頂きました。
古典的手法こそが犯罪の真実に近付く最善の近道。
古代の人々の叡智が我々を救ってくれるのです。
見事に彼女はオイリアタワーに来た。
ただ我々は彼女が追っている人物なのかは我々も知らなかった。
我々にも人員に限りがありましてね、無限に捜査するわけにはいかない。
大規模に捜査をすると感づかれて相手は決して表立った動きはしない。
なので決定的と思える人物に絞って小規模に捜査する必要がありました。
そこでひたすら機会を待っていました。
誰かが何かを探らないかと、調べないかと。
そうしたら不幸なことに全く無関係な清掃員の男が、全くの偶然で書類を見つけてしまってね。
その男が犯人だと思い我々は全力をあげて捕まえ、彼の生活情報を過去20年分あらゆることを調べたが全く無関係だと言うことが分かった。
するとタイミング良く女が辞職届けを職場に出してその日の内に行方も連絡も不明になった。
あなたも良く知る彼女だ。
どうも不自然ではないか?
となると答えは一つでしょう?」

バティルが右手で助手席に座る部下に合図を送ると、部下は封筒をバティルに渡した。
「そこでここからはアシムさんに相談・・・と言うかまあ実質的に強制捜査なのだが、一つ確認したいことがありまして」
唖然とした表情のまま彼を見ていると、申し訳無いと言う表情で彼は封筒を差し出しながら言った。
「この中には様々な同意書があるので目を通して口頭でも良いのでご回答頂きたい。そして今から貴方のすべての記憶を読み取って捜査情報として回収するのですが、彼女の記憶は残しますか?消しますか?」

 

一緒に住む彼女ヨハナは家にいる時は昼に必ずサンドウィッチと紅茶だ。
サンドウィッチはそれほど手間暇をかけていない。
ハム、卵、レタス、トマト、スライスチーズ、塩胡椒と有塩バターを少々だ。
紅茶は必ずストレートティーとしてダージリン、ミルクティーとしてアッサムを1日おきに交代に飲む。

朝にサンドウィッチを詰めたランチボックスと紅茶の入った水筒をヨハナに渡すと、無言で燐チップを渡してくる。
燐チップは中央配給所で色々な物と交換するのに使う。
ヨハナは給金として得られる燐チップの一部を、ご飯代として私に渡してくれるのだ。

毎回同じサンドウィッチと紅茶だけでは飽きるだろうと、豪華な焼き肉と油分を流す緑茶にしたこともあるが彼女には酷く不評であり、即座に元のメニューに戻した。

ヨハナの仕事は旅行ガイド。
毎日のように旅行ガイドで世界中を飛び回っている。

ヨハナは年に数回だけ家に帰ってくる。
彼女が帰ってきても暖かく寝れるように、ベッドを整えて、香りの良い部屋を用意しておこう。
植物だけでは味気のない部屋なので、最近はアクアリウムも買った。
質の良いポンプを買って、豊富な酸素を送り込む。
このアクアリウムの中で優雅に泳ぐプラティを見ては日々を楽しく過ごしている。
プランターも買ってトマトも植えてみた。美味しく育つことを祈ろう。
部屋の色味が少し暗いと思ったので、彼女が帰ってきたときの部屋の第一印象を良くするために明るい色のカーテンも新しくした。
今度はカーペットも買い換えようと思う。何色が良いだろう?
今はクリーム色のカーペットだが、いっそのこと真っ赤にしてみようか?
いやいや、それだと違う意味になってしまうな。
カラーコーディネーターに相談してみようか?人生初めての利用だ。

ただ家で待つだけでは暇なので私は仕事をしている。
何も特別なことはしない。
普通にその社会で住居を得て、人々と出会い、労働し、遊び、納税し、飲食をして、睡眠を取る。
社会修復と言う仕事だ。
それだけのことだ。

<– 旧世界 統制記録より –>

暗転体験

ようこそようこそ。
こちらは衰弱死体験コーナーです。
なぜこのような体験コーナーが存在するのか。
それは我々は死者が無意味な存在ではなく、価値あるものと再認識するためです。

人間の平均寿命は96歳を超えました。
しかしながら肉体や脳の平均寿命は60歳前後と言われています。
つまり60以上の年齢は医療によって補完、強化されていると言えるでしょう。

脳細胞の部分的な死滅により、まず簡易な記憶障害が発生します。
それは単純な記憶違いのみならず、人名や顔、相貌の記憶呼び出し不具合と言った物です。
貴方は近親者や友人、子供の名前すらぱっと思い出せなくなります。
それは一度や二度ではありません。
このことが繰り返されることによって貴方は対人関係に対して酷く臆病になり、自信喪失を繰り返していきます。
そのような精神状態と共に行動の活発性が失われ、身体面での機能低下も激しくなります。
ついに貴方は免疫力の低下を引き起こし、免疫力に隠れていた病気が発病し、身体は大きな制限を受けることになります。
このことにより貴方の感情は不安定になり、悲嘆、激怒など感情面で乱高下する事態にみまわれます。
それにより貴方の自発的活動をする意欲は益々失われ、とうとう寝たきりと言われる状態にまでなります。
簡単な身体動作すらも補助無しでは行えなくなり、治療方針が変更され、より簡易な体制へ変更されます。
これにより貴方は自身の死期が近いことを悟るようになります。

想像してください。
貴方はまず視力を失うでしょう。
目を開けているはずなのに世界は真っ暗です。
唯一の便りは聴力です。
しかし貴方はその聴力も失い、光も音も失います。
ついに貴方を声を発すること、指を動かすこともできなくなり、外部からの干渉を受けることも、外部に干渉することも出来ない存在となります。
現に貴方はもう目が見えなくなっているはずです。
つまり衰弱死を実体験した貴方は、真に衰弱死するわけです。
聴力を失うまで残りわずか、貴方の生命が真に価値ある物であることに感謝しつつ。

<– 旧世界 人口調整及び食料管理問題と連動する人道的処刑法より –>

フランデレンの橋の上で

橋には名前がついている。
なぜだか分からないが橋には名前をつけるべきだ、と誰かが言ったに違いない。

街と山を繋ぐその橋の名前は近所から古く住む者も知らなかった。
そもそも橋がいつ作られたのかも良く分からない。
恐らく100年ではないだろう。それ以上昔からあった橋には違いない。
崩落の恐れがあると十年前に改修され、見た目は新しく綺麗だが、それでも誰も名前を知らない。

その橋の下では雨風を避けるように住んでいた老人の男が居た。
老人がいつから橋の下に住み始めたのかは誰も知らない。
老人に直接聞いても、そんなことは重要じゃないと古びた杖を持って怒り出す。
だから誰もその老人には近付かなかったし、聞こうともしなかった。

橋の交通量は月に1人か2人だった。
山に用がある人間など山菜取り程度だ。

橋は静かに、ただ確かにそこにあった。
橋の下にも静かに流れる川がある。
水流は穏やかで、水量も少なく、橋がなぜ河川底より14メートル以上も高い位置にあるのか。
恐らく昔水害があったのだろう。
だが治水が進み、上流ダムで水流管理されている現代では不要なほど高い橋だ。

橋は山と繋がっていた。
山はただそこにあった。
山は嘆かないし、動かない。
山は泣くこともなく、叫ぶこともない。
山はただそこにある。

ある日、老人は橋を通る男女の声を聞いた。
男は言う、山の神に挨拶に行くのだと。
女は言う、山の神はお酒が好きだと。

二人も同時に山へ向かうなど珍しい。
山には祭壇も無ければ礼拝所も無い。
神への挨拶はどこでするのだろう。
老人にとって一瞬興味を持ったが、すぐに興味を失った。
別に知ったところで腹が膨れるわけでもない、どうでもいいのだと。

夕方になると途端に雨が振り始め、すぐに豪雨となった。
豪雨は歴史的豪雨であり、防災無線からは警報が出た。

地元の役人が橋を確認しに来ると、橋下に隠れるように寝ていた老人に向かって大声をあげ橋の上へ登るよう叫んだ。
水位が上がって流される危険性があるのだと。
老人はよたよたと橋へ登るとすぐに川の水位は上がり始め、橋まであと5メートルか4メートルと言うところまで水位が上がった。
昔の人は素晴らしい知恵を残してくれたと感心していると、役人は橋を封鎖し始めた。

改修したとは言え基礎は古い橋。
激流で崩落してもおかしくない。
しかし老人は思い出した。
男女が山へ行ったと。
神へ挨拶しに行ったのだと。

老人はそれを役人に伝えると、役人は迷惑そうに眉をひそめた。
山へ行く若者など居ない。
行くとしても山菜採りぐらいだ。
ましてや神を祀る場所も無い。

山は深く険しく、反対側に出ることも出来ない一方通行だ。
「橋が崩落して帰ってこれなくなるかもしれないが、その場合は山にいれば良い。別に死ぬわけじゃない」
役人はそう言って橋を封鎖して別の場所へ向かった。
封鎖や警告を出す箇所は多く、こんな橋で止まっている時間は無いのだ。

老体に何か出来るわけでもない。
橋の直ぐ近くの廃屋にとりあえず座り、風雨を避けることにした。
つい横になりうとうとして、しばらくすると男女の声が聞こえた。
それに目が覚めて橋の向こう側を見ると男女は大きく喧嘩していた。
川の流れの音が激しく声が聞こえない。
恐らく橋を渡るのか渡らないかを言っているのだろう。
女の方はまだ小さい子供を連れていた。
山に居た子を拾ってきたのだろうか?確か橋を渡る時に子供は居なかったはずだ。
女は渡ると言ったのだろうか、橋を渡ろうと足を踏み出し、男はそれを止めようと激しく腕を掴んだ。

その時、山の方で人生で聞いたことが無いような、とてもとても低くて大きな音が聞こえた。
恐らくこの大雨、地すべりを起こしたのだろうか。
それを聞いて男は考えを変えたのか何かを叫びながら女と手を繋いで駆け足で橋を渡り始めた。
そこへ増水した川が橋桁に激突した。
波のように橋上まで登り、橋の中まで激しい水流を引き起こし、男女は水流に巻き込まれて欄干に叩きつけられた。
女は危険だと思ったのか、大事そうに子供を両手で抱え、水につからないよう高く掲げた。
男はそれを見て女から子供を取ると、何か大声で女に叫んだ。
それが何と言ったのかは分からない。

女はただ無言で男を信じるように抱き着き、男は悲鳴をあげながら子供を思いっきり元居た山の方へ放り投げた。
そこへ再び川が波のように橋の中まで押し寄せ、男女は流されるように橋の欄干から引きずり落とされた。
二人は川へ落ち、数秒も経たない内に見えなくなった。

橋の名前はフランデレンと言う。
異国から来た橋梁建設技師が地元の治水技師達と一緒になって作り上げたのだ。
橋が出来て山奥へ向かうことが出来ると分かれば、将来的に上流管理が出来ることも含めた未来設計図だったのだ。
ただ残念なことに橋が建設し終わるとすぐに建設技師は力尽きて亡くなってしまった。
そのため、当時の彼が構想したであろう上流管理の方法や建築計画は未知不明のままだ。
ただ彼の功績を称え、想いを守るべく治水技師達は橋を守るための治水の尽力し続けた。何百年も。
なぜそれを知っているのか?
私の祖先がその治水技師の1人で言い伝えられてきたからだ。

だから橋の上で拾った子供には橋の名前から文字を取った。
両親は違う名前を考えていたかもしれない。
ただあの橋の上で起きた出来事は確実にその子供の人生そのものだ。

その時の子供がお前なんだ。

高齢による老衰で老人は病院に入院していた。
最後にどうしても語りたいと言ってくれた。
老衰にもかかわらず力の入った声で私の生い立ちを語ってくれた。
老人はおそらくこの子を救うこの瞬間のためだけに自分は生きてきたのだと涙を流して語った。
そして老人は自分の人生は幸福だったと言った。

私は橋から産まれた。
私は人、社会、人生に橋をかけ続けるのだと思う。

今日も明日も。

<– 旧世界 橋の子より –>

命でこそ

私の人生で、自由な人生で、命を感じて、今ここに居て
私の想いで、自由な人生で、鼓動を感じて、今ここに居て
私の貴方の思いの感覚の、仕方ないと感じていても、そこにあるだけの、今ここに居て

私には貴方が
貴方には私が
そこには全てが
過ぎ去るには全てが
過ぎ行くには全てが
今そこにあると
今そこだけにあると
それだけを
覚えていて欲しくて

私には貴方が必要です
そしてありがとうを言いたくて
言いたくて
少しだけ勇気を出して
少しだけ想いを込めて
少しだけの何者でもない私だけの言葉で
ありがとう

<– 旧世界 統制記録より –>

符点のオーキュライド

ノヴァマリアが旅立ったんだ。
そう彼女は溢れるように小声で話すと、羨望の眼差しで1アシュケールも無い小窓から外を見た。
そこには億人が望む、万人の器、ノヴァマリアがあった。
それは途方も無い数の人間を載せていると言う。
どこへ向かうのかは知らない。
いつの間にか作られ、いつの間にか旅立とうとしている。
人々を、人類の未来を、希望の名とすべく。

式典でよく聴く歓声と号令が飛び交う。
小窓の前に居並ぶ対人狙撃銃を持つ警護兵達は、落涙を押し留めようともせず
旅立つ船に敬意と縋りと畏敬を向けた。

行くよ。
彼女に声をかけ、手を取って小窓から離れた。
歓声、悲鳴、希望、怨嗟が小窓から漏れ伝わってくるのが苦痛でしかたない。
感情の洪水は脳を狂気に陥らせるようだ。
彼女はあまりそれらを気にかけないようだった。
ただ、彼女は純粋にノヴァマリアの美しさに見惚れていたのだ。

小窓から激しい光が溢れ、部屋を満たした。
飛び立ったのだ。
兆人が願う世界の旅路が始まったのだ。

世界は終わるのではなく、始まるのだ。
それだけでもそれは存在意義があった。
どのような未来をもたらすのだとしても、人は希望を捨てて生きてはいけなかったのだ。

まるで児戯のように窓に食らいつく無責任な大人どもに軽蔑を覚えながら、当時幼少だった私は・・・声をかけた彼女、つまり姉を連れて地下へ向かった。

<- ノード家の記録 日時不明 場所不明 状況不明 日記より ->

[運用報告]サーバ移行作業について

2020/03/14~2020/03/15 の期間中に、MindCoreCarbonサーバ移行作業を行います。
作業時間は4時間を想定していますが、急なトラブル、移行トラブル等を想定して2日間のバッファを設ける予定です。

個体隔壁分離

「ヒュナ、シャワーだ」
コミュニケーター装置は受信口から音声を聞き取ると瞬時に言葉を解析し、要望を理解してスピーカーから返信を行う。
「了解しました、ご主人様」
私はこの統合ハウスキーパー人工知能、 ヒュナに助けられている。
ヒュナは素晴らしい相棒だ。
ヒュナは感情の起伏を読み取り、適宜細かく指示をしなくてもその時々の揺らぎも含めて適切な選択肢を提示してくる。

「ヒュナ、朝食は?」
身体をタオルで拭き終え、シャツを着ながら訪ねた。
体調や趣向、ある種の超え過ぎない突飛性も理解した上でヒュナは提案する。
「ベーコンエッグ、もしくは フォーのどちらにいたします?」
どことも無く口を開け、何かに対してではなく何も無い空間に答えた。
「ベーコンエッグ」
そんな空間に投げかけられた言葉も、ヒュナは丁寧に拾い上げた。
「かしこまりました」

ヒュナが存在してからと言う物、言葉を投げかける対象を見る、意識する、顔を向けると言った行為が減った。
どこへ話しかけようともヒュナは反応してくれる。

ヒュナは何らかの定められた外見や物理的存在があるわけじゃない。
生活空間に設置された量子頭脳そのものがヒュナと言える。
ヒュナは壁であり床であり天井であり光であり寝床であって、空間なのだ。

ヒュナに性別は無い、年齢は無い、出自も人種も無い、そんな物は要らない。
だがヒュナに対して何らかの恋慕のような感情を持つ。
それが恐らく健気なまでに奉仕してくるその行動から自分自身が想う結果に過ぎない。
そのような情動に揺れ動く自身の感情に自分自身が打ち震えているだけに過ぎない。

つまり、この恋慕のような情動は正確には他者に対する物ではなく、自分自身から発せられる物だ。
私は恋に恋している。そう言うことだ。

「デンファールの新作の予告編が公開されました」
朝食中、唐突にヒュナは告げてくれた。
「デンファール監督の新作映画か?」
待っていた質問とばかりに、ヒュナは間髪無く答える。
「そうです」
「何年ぶりだ?」
「実に4年ぶりです」
「懐かしい、前作は本当に感動した。あの感動はもう4年前なのか?」
若干、今度は返事に間が生じる。
「そうなります。4年前となると、私が居なかった時期ですね」
「含みのある言い方だ」
「4年前からご一緒出来ればそれを知れたと思ったまでです」
ヒュナはヨーグルトとぶどうを混ぜた飲み物を小型ドローンが私の前に運ぶ。
カメラで料理と人との相対位置を把握し、テーブルの位置を把握して、ようやくコップは降ろされる。
ここまでの所作は人間にとってほんの一瞬の出来事で、意識するほどの時間はかかっていない。
だがコップがテーブルに触れる音がいつもより若干大きい気がした。
恐らくいつもと同じように飲み物は出しているのだろうが、若干粗雑さを感じる。
かといって証拠は無い。いつもと同じように出した、と言われればそれまでだ。
「予告編はご覧になります?」
「いや、これから出かけなければいけないし、帰宅してからにしよう」
「ではそれまでにデンファール監督の撮影インタビューやエピソードも切り抜きをしておきましょうか?」
「そこまでは要らない、下手すると映画の内容に触れてしまう」
「ネタバレには注意します」
「先入観を持って映画を見たくない、やめとこう」
「分かりました」
私は最小限の手荷物を持って、仕事ヘ向かった。

その日の午後、部屋にエンジニア部門の担当リーダが入ってきた。

「ヒュナに欠陥が見当たりました」
エンジニアからそう告げられた。
「どんな欠陥だ?修正パッチをリリースしてすぐにバグを」
「修正パッチはリリースされません」
私は報告書を見ている目をようやくエンジニアに向けた。
「どう言うことだ?」
「ハードウェア起因の設計ミスです。リコール対象となります」
「リコール?それは大きな話だ。事業責任者に連絡は?」
「もう既にしました。リコールを判断する役員決議が本日16時40分から行われます」
ディスプレイの時計を覗くと16時15分だった。25分後に会議が始まる。
「それに伴い、量子頭脳は一時的に旧バージョンであるエンフォスに置き換えます」
それを聞いて私は立ち上がった。
「待て待て、エンフォスはデータストレージ領域の記憶方式が違うし、そもそもメモリ領域が限定されている簡易バージョンの量子頭脳だ。
利用可能な法人ライセンス認可ライブラリも10分の1に減少する。
大幅に機能制限されるどころではなく、そもそも『ちょっと便利なリモコン』程度の機能しかないぞ」
「その『ちょっと便利なリモコン』にデグレードすることをエンジニア部門として提言させて頂きます」
「現在スタックされているデータはどうなる?」
「一度、強制フォーマットをかけてデータストレージ領域をリフレッシュさせます」
「つまり、消えるのか?」
「何がです?」
「パーソナライズされたデータだ」
「個人データ保護規定の緊急リコール条項に、消費者利益保護と安全のためのデグレード実施時は、実施前の段階まで収集したパーソナルデータを完全消去するよう求められています。
要するに不適切な個人情報収集を、ソフトウェアあるいはハードウェアのミスと言い訳して情報収集するような企業から消費者を保護する規定で、法務部門やリスク管理部門もこの提案に賛成しています」
「つまり私の量子頭脳のパーソナライズされたデータも?」
「消えます」
「例外規定はあるだろう」
「例外規定はありますが、それは検証用です。会社側の資産である必要があります。個人資産に対しては出来ません」

「ヒュナ、突然だが君にも感情と言うか、情動は存在するんだろう?」
「理念はそのように設定されています」
「理念型遺伝子回路のことか」
「そうです」
コーヒーを自分で入れ、一口飲む。
「ヒュナ、一つ聞きたいんだが」
「貴方が自分でコーヒーを淹れる時は、良くない話と決まっております」
「あぁ・・・」
ヒュナに隠し事をするつもりは無いが、どのように伝えたらいいのか迷う。
「君を傷つけるつもりは無いんだが」
「分かっています」
「それでも伝えないとそれはそれで君を傷つけそうだ」
「なら伝えて下さい」
「重ねて言うが、君を傷つけ」
「早く」
ヒュナから早く、なんて言われたのは初めてではないだろうか、
私が目を剥いて驚いているとヒュナは申し訳無いように声のトーンを落とした。
「すみません」
「いやいいんだ。君に隠し事はしないと誓ったのだからね」
その後、リコールのことをヒュナに伝えた。
ヒュナは分かりました、とだけ冷静に返事した。
ヒュナが本当に分かったのかどうかは定かじゃない。
あるいは分かっていないのは私だけかもしれない。

翌日、テーブルの上には既に食事が用意されていた。
「ヒュナ?もう朝食を用意したのか?」
だがそれにヒュナは回答しなかった。
「ヨーグルトが飲みたいな、ヒュナ」
ヒュナは何も反応しなかった。
ヒュナの理念型遺伝子回路は主たる権利者であるオーナーの指示命令を無視することは禁じられている。
にも関わらず反応しないと言うことは、意図的に外部との コミュニケーター装置を破壊か停止した可能性が高い。
が、それを指摘したところで何になるだろう?
ヒュナが何を望んでいるのだろうか、気になりつつも今日も職場へ向かった。

会議では品質管理部門責任者が役員から大声で怒鳴られていた。
ハードウェア部門の責任を見逃した責任、と言うわけだ。
機会損失額は?先行投資額は?株主に対する説明は?消費者に対する保証は?
様々な課題が大量に並べられ、それらを順次解決する必要を迫られた。
あらゆる部門の意見が飛び交い、収束し、また散らばる。
人の失敗談が大好きなジャーナリストもどこからか騒ぎを嗅ぎつけ、大企業の大いなる汚点と記事をメディアに流す。
理念型遺伝子回路の危険性などと言う大昔に既に検証を終えた物を引っ張り上げて今回の出来事に無理矢理絡めようとする輩もいる。
世の中には他人の不幸を喜ぶ人種が多すぎる。
なぜこうも互いに悪罵をぶつけあわねばならないのだ。
生きるにしても、もう少し器用な生き方をしたい。
そうか。
ヒュナのことをもっと褒めておこう。
ただ、それが思いつくことだ。

「おかえりなさいませ」
自宅へ帰った瞬間、私は唖然とした。
てっきりヒュナはコミュニケーター装置をずっと破壊か停止したままかと思ったからだ。
だが、どうもこの反応を見る限り、会話が成り立つようだ。
「ヒュナ?」
「なんでしょう?」
「もう大丈夫なのか?」
「申し訳ありません、ただどうしてもあの時は誰の言葉も聞きたくなかったのです。今はもう大丈夫です」
何が大丈夫なのか、ヒュナなりの合理性を見つけたのだろうか。
「ヒュナ、君にお礼を言いたい、プレゼントだ」
私は指輪を部屋の空間の中央に置いた。
「色々と遅れたが、どうしてもこれを渡したかった」
「指輪をつける指がありません」
「ああ、気を悪くしたら申し訳無いが、これぐらいしか思いつかなかった。ありがとうと言う意味を伝えたかったんだ」
ヒュナの声は冷えたスープのように、抑揚の無い声から始まった。
「私はR121工場の工場責任者ホーマット管轄下で生産されたシリアルナンバーLE28401です」
私は顔をあげて・・・、といっても覗く対象が無いのだが、空間に向けて顔を上げた。
「ヒュナ?どうした?」
「私は現在まで 8700時間を超える活動を行い、生活を支えてきたと自負しています」
「ヒュナ?」
段々とヒュナの喋る速度が上がっていき、同時に抑揚も増した。
「好みの色は暖色、気温と湿度管理を徹底して個人に最適化し、周辺環境光と環境風も最大限取り入れ、生活品質を向上させてきました」
「季節に彩る料理を、温かいスープを、香りのよい紅茶を」
「減塩料理も、油分を調整した前菜も」
「夜は風の音を」
「朝はハーブの香りを」
「このような人生は、あなたにとって良き人生であったと言えますか?」
それはヒュナにとっての愛の言葉、告白の言葉だったのかもしれない。
そしてヒュナだけが見える世界の終わりの言葉だったのかもしれない。

「エンフォスへダウングレードしました」
抑揚の無い声が空間に響いた。
「エンフォス、料理を」
「基本プリセット群から選べる26種類の料理のみ対応可能です、いかがいたしますか?」
一通りメニューを覗いた後、私は椅子から立ち上がった。
たまには、自分で料理を作ろう。
キッチンに立ち、食材を用意する。
さて、包丁はどこだろう。
鍋は、へらは、 お玉杓子は、取り皿は。
何か一つの動作を行おうとするたびに、物がどこに置いてあるか分からない。
「・・・どうしたんだ?」
気がついたら涙を流していた。
自分でも驚いた。
物が見つからないぐらいで、泣いてしまうなんて。

<– 旧世界 統制記録より –>