彼女は昼に必ずサンドウィッチと紅茶だ。
サンドウィッチはそれほど手間暇をかけていない。
ハム、卵、レタス、スライスチーズ、塩胡椒と有塩バターを少々だ。
紅茶は必ずストレートティーとしてダージリン、ミルクティーとしてアッサムを1日おきに交代に飲む。
朝にサンドウィッチを詰めたランチボックスと紅茶の入った水筒を彼女に渡すと、無言で燐チップを渡してくる。
燐チップは中央配給所で色々な物と交換するのに使う。
彼女は給金として得られる燐チップの一部を、ご飯代として毎日のように私に渡してくれるのだ。
毎回同じサンドウィッチと紅茶だけでは飽きるだろうと、豪華な焼き肉と油分を流す緑茶にしたこともあるが彼女には酷く不評であり、即座に元のメニューに戻した。
彼女の仕事は社会修復を担当していた。
社会修復と言っても特殊能力が必要な技能ではない。
建築物は人が使わないと崩れていく。
物事は使うことによって強化、維持される。
そこに人がいると言うだけで存在は強固になる。
それは社会も同じだ。
何も特別なことはしない。
普通にその社会で住居を得て、人々と出会い、労働し、遊び、納税し、飲食をして、睡眠を取る。
それだけのことだ。
彼女は自宅から自宅へ帰宅する。
彼女にとって自宅は2種類ある。
社会修復労働としての自宅と、その労働から帰宅する自宅だ。
前者は主に労働宅、後者は私宅と呼ばれる。
どうだった?
私宅へ帰ってきた彼女に話しかけると、水筒だけ手に持ち、荷物を玄関に置いて、リビングの椅子にもたれた。
右手の人差指をくるくると天に向けて、机にコンコンと叩いた。
つまらない仕事、そう言いながら彼女は地図を示しながらビジネスエリアのオイリアタワーを示す。
全く皮肉も無く、素直に彼女を称賛する。
凄いじゃないか、エリートだ。キャリアに繋がる。
キャリアと言う言葉に反応した彼女は、まだ水筒に残っている紅茶を飲みながら自嘲するように笑った。
紅茶を飲み干してだらんと右手を垂らすと、うなだれるように声を出す。
こんなことキャリアに繋がらない。
どうして?オイリアタワーは自分の知ってるファーゲルやライリアのチームにも一人も経験者は居ない。
そう言うと、彼女は今日初めて目を合わせて言った。
「ハズレだから」
彼女は出張する、といって数日前に出かけた。
静かな一人だけの朝を迎えると玄関に予想していなかった客が来た。
「こんにちは」
コンコンと玄関ドアを叩く音がする。
インターフォンも使わずに?
どなたです?
「社会保安局です、アシムさんでしょう?お話をさせて頂けませんか」
ドアを開けると社会保安局と呼ばれる人物が3人ほど立っていた。
「初めまして、社会保安局のバティルと言います。アシムさんですね?」
はい。
「今はお一人で?」
ええ、夜には彼女が帰宅します。
「その彼女とはこの方ですか?」
保安局の人物が労働認証カードを示した。
そこには彼女の写真が貼り付けてあり、労働固有IDが記載され、有効期限も記載されていた。
どこでこれを?彼女が落としたのですか?
「まあ、彼女が落としたとも言えるでしょう」
バティルは困ったような表情をしながら彼女がいつも職場の自宅へ向かう時に持っていく大きなバッグを後ろに立つ部下に持ってこさせた。
これは彼女の?
「見覚えが?」
そう言いながらバティルはバッグを開けた。
私物を勝手に?そう言うよりも早くバッグが開かれると中からは様々な衣服が出てきた。
仕事着だろう。
そう思っているとバティルは言った。
「実はこのバッグ、オグマに落ちていましてね」
オグマ?そう聞いてしばし考え込んで思い出した。
そうだ、製造業が集中している区域だ。
オイリアタワーにいるはずでは?
そう聞き返すと、バティルは壁にかけている私のコートを見た。
「少しお時間頂けませんか、ドライブでもしながら」
社会保安局に逆らったところで何も利益は無い。
バティルの用意した車に彼と彼の部下と共に乗り込む。
部下が運転席と助手席に、後部座席に私とバティルが座った。
「好きな音楽でも?」
バティルは気を利かせて聞いてくれたが、要件優先で、そう答えると嬉しそうに微笑んだ。
「アシムさん。実は彼女なんですが、この労働認証カード、偽造でしてね」
激しく私は咳き込み、必死にバティルに言った。
待ってくれ。彼女はここで少なくとも6年か7年は働いてるはずだ。
毎年労働局から認証更新もしている。実際に一緒に更新についていったこともある。
それに半年に一度の現場監督官の検査も受けてる。
そう言うとバティルは社会制度の不備に対する深い悲しみを表すため息をつきながら答えた。
「所詮認証カードとかルールといったものは人間の作った物です。破ろうと思えば破れるのです」
どうやって?
「労働局に彼女の仲間がいたとしたら?現場監督官が彼女の仲間だとしたら?」
助手席に座っている部下が、偽造証拠品とタイトルのついた電子書類をディスプレイ越しで提示してきた。
そこには偽造箇所と思われる部分が赤い印で示されていた。
私がこれには本当に偽造かどうかは分からないが、仮に偽造だとしたら?彼女はどうなるんです?
「それよりももっと大事なことがありまして、質問宜しいですか?」
バティルは目を開いてこっちを真っ直ぐ見据えた。
「彼女の名前は?」
名前、それはもちろんあれだ
名前は
「名前は?」
名前は…
名前…?
「思い出せませんか?」
いやいやいや、緊張してど忘れしただけだ。すぐに思い出す。
彼女の名前は
「彼女の名前はアンジェル」
そう!そうだ!アンジェルだ!
「ヒメリア、クロエ、カーラ、イネス、グラシア…」
なんだ?何だその名前は?
「彼女が持つ他の名前ですよ。アシムさん、どれも聞いたことがあるでしょう?」
バティルに言われた瞬間、激しく目眩が起きた。
どの名前も聞き覚えがある。
彼女の顔が浮かぶ、だがなぜだろう?彼女の名前は一つだけなはずだ。
彼女の名前は
「そして別の質問なんですが、彼女から定期的に受け取っていた物はありませんでしたか?」
定期的に?そんな物は
そう答えようとした瞬間に心臓がドクンと音を鳴らす。
ふいに汗が額や脇からじわっと滲み出る感覚を覚えた。
朝にサンドウィッチを詰めたランチボックスと紅茶の入った水筒を彼女に渡すと、無言で燐チップを渡してくる。
燐チップは中央配給所で色々な物と交換するのに使う。
彼女は給金として得られる燐チップの一部を、ご飯代として毎日のように私に渡してくれるのだ。
燐チップ。
「アシムさん?身に覚えがあるでしょう?」
まさか、いや、でもあれは彼女から受け取っていた食事代で。
「その燐チップがこれなんですがね」
そう言ってバティルは一つのコインを出した。
それは燐チップでもなんでもない、ただの電子コインで、通貨と言うよりは割引券やオマケのようなものだ。
私を騙そうと言うんですか!!
思わず激昂し、バティルを睨む。
「そう反応なさるのも無理無いですが、この電子コイン。イメージ誘導投影の機能がありましてね」
バティルが右手でコインを撫で回すと、なにかのスイッチに触れたのか、カチッと音が鳴ると瞬時にコインから細いノズルが飛び出した。
「この電子コインは犯罪組織が使う物です。催眠効果にむしろ近い。
貴方は見ていない物を見ていたんですよ。この電子コインで」
「ハズレだから」
彼女の声は何度も何度も聞いていた。
ただ、あの声だけ質感が違った。
ああ、あの声だけが本物だったのか。
それ以外は幻影だったと言うのか。
だと言うとハズレと言うのは何のことだ?
「オイリアタワーにはある種の設計図がある・・・と言う情報が流れていた」
設計図?
「ああ、そこは興味を持たずに。何、あなたには関係無いことです。まあいずれにせよ重要な書類があったと言うことです。
もちろん、オイリアタワーにそんな物があると言うのは我々が流した情報で、囮捜査と言う奴です。
囮捜査は人類史の中で2000年経っても4000年経っても有効なので使わせて頂きました。
古典的手法こそが犯罪の真実に近付く最善の近道。
古代の人々の叡智が我々を救ってくれるのです。
見事に彼女はオイリアタワーに来た。
ただ我々は彼女が追っている人物なのかは我々も知らなかった。
我々にも人員に限りがありましてね、無限に捜査するわけにはいかない。
大規模に捜査をすると感づかれて相手は決して表立った動きはしない。
なので決定的と思える人物に絞って小規模に捜査する必要がありました。
そこでひたすら機会を待っていました。
誰かが何かを探らないかと、調べないかと。
そうしたら不幸なことに全く無関係な清掃員の男が、全くの偶然で書類を見つけてしまってね。
その男が犯人だと思い我々は全力をあげて捕まえ、彼の生活情報を過去20年分あらゆることを調べたが全く無関係だと言うことが分かった。
するとタイミング良く女が辞職届けを職場に出してその日の内に行方も連絡も不明になった。
あなたも良く知る彼女だ。
どうも不自然ではないか?
となると答えは一つでしょう?」
バティルが右手で助手席に座る部下に合図を送ると、部下は封筒をバティルに渡した。
「そこでここからはアシムさんに相談・・・と言うかまあ実質的に強制捜査なのだが、一つ確認したいことがありまして」
唖然とした表情のまま彼を見ていると、申し訳無いと言う表情で彼は封筒を差し出しながら言った。
「この中には様々な同意書があるので目を通して口頭でも良いのでご回答頂きたい。そして今から貴方のすべての記憶を読み取って捜査情報として回収するのですが、彼女の記憶は残しますか?消しますか?」
一緒に住む彼女ヨハナは家にいる時は昼に必ずサンドウィッチと紅茶だ。
サンドウィッチはそれほど手間暇をかけていない。
ハム、卵、レタス、トマト、スライスチーズ、塩胡椒と有塩バターを少々だ。
紅茶は必ずストレートティーとしてダージリン、ミルクティーとしてアッサムを1日おきに交代に飲む。
朝にサンドウィッチを詰めたランチボックスと紅茶の入った水筒をヨハナに渡すと、無言で燐チップを渡してくる。
燐チップは中央配給所で色々な物と交換するのに使う。
ヨハナは給金として得られる燐チップの一部を、ご飯代として私に渡してくれるのだ。
毎回同じサンドウィッチと紅茶だけでは飽きるだろうと、豪華な焼き肉と油分を流す緑茶にしたこともあるが彼女には酷く不評であり、即座に元のメニューに戻した。
ヨハナの仕事は旅行ガイド。
毎日のように旅行ガイドで世界中を飛び回っている。
ヨハナは年に数回だけ家に帰ってくる。
彼女が帰ってきても暖かく寝れるように、ベッドを整えて、香りの良い部屋を用意しておこう。
植物だけでは味気のない部屋なので、最近はアクアリウムも買った。
質の良いポンプを買って、豊富な酸素を送り込む。
このアクアリウムの中で優雅に泳ぐプラティを見ては日々を楽しく過ごしている。
プランターも買ってトマトも植えてみた。美味しく育つことを祈ろう。
部屋の色味が少し暗いと思ったので、彼女が帰ってきたときの部屋の第一印象を良くするために明るい色のカーテンも新しくした。
今度はカーペットも買い換えようと思う。何色が良いだろう?
今はクリーム色のカーペットだが、いっそのこと真っ赤にしてみようか?
いやいや、それだと違う意味になってしまうな。
カラーコーディネーターに相談してみようか?人生初めての利用だ。
ただ家で待つだけでは暇なので私は仕事をしている。
何も特別なことはしない。
普通にその社会で住居を得て、人々と出会い、労働し、遊び、納税し、飲食をして、睡眠を取る。
社会修復と言う仕事だ。
それだけのことだ。
<– 旧世界 統制記録より –>