子守りから世界は始まった。
人は子を守ることで日々を生き、自分を知り、未来を得る事ができた。
子守りとはすなわち世界そのものである。
我々は生物の根源活動である子守りを、ロボットに引き渡したのだ。
それがどんな意味を持つのか、人々はもう少し考えるべきだった。
倫理的には問題無くとも、それはロビィと名付けられた。
名前がついた瞬間から家族は再構成された。
家族とは何だろう?
いつからか神の名において構成されたのだろうか?
生物の意志はどこにあるのか?宇宙が定めた運命だとしても、家族の構成は不変と信じられていた。
人類の定義が不変と信じられていたのと同じ理由である。
産業革命以前は人類こそが最も正確で統一性があり規則性に従い定量的なパワーがあると信じられていた。
しかし産業革命以後は人類はファジーで不定形で、不正確であり、多様性と個性があると認識は改められた。
人類の定義すらも歴史の中では変化しているのである。
いつしか人は分業と言う産業形態を通じて社会効率を高めることを知った。
ならば家族にも分業と言う概念が生じることは遅くない、それは今現実として目の前に変化が起きている。
家族構成と言う物は、束縛と成長の環境であり、腐葉土のような物であった。
いつしか家族構成に一つの変化が訪れた。
単純労働者として加わったその「ロボット」は、子守りと言う決められたルーチンワークと厳格な生命保護規定によって運用された。
それが2年3年と言う短期ならば問題無かっただろう。
だが10年20年と続けばどうだろう?
ロビィは1世代を通じて家族の地位を獲得した。
そして人類は子守りを手放すことで、子との関係を失った。
<- アーパルネット エンピレーのログファイル より ->